国立能楽堂で「11月定例公演 蝋燭の灯りによる能『鵺』/狂言『空腕』」を拝見しました。
配役
狂言『空腕(そらうで)茂山忠三郎(大蔵流)』
空腕とは「偽りの武勇伝」の意味。淀に鯉を買いに行くように頼まれた太郎冠者、その段階で既に行きたくなさそうな臆病な雰囲気が面白い。暗い道に来るとびびり過ぎて杭や松の枝を賊と間違えびびりまくり、様子を見に追ってきた主人に後ろから扇で叩かれ、持っていた刀も奪われてしまいます。切られたと勘違いした太郎冠者の様子は、臆病というよりは落語的な楽しさ。結局鯉を買わずに戻って主人に武勇伝を自慢げに語りますが、おそらく一度も喧嘩したこともないため、武器の名前も滅茶苦茶、相手の武器を叩き落とす描写とか擬音、「何を隠そう太郎冠者だ!」みたいな名乗りに爆笑。折れて投げつけたと言った刀を主人が持っていた時の子供みたいな言い訳も良いですね。現代のコントの起源を思わせる狂言でした。
能『鵺(ぬえ)白頭 武田尚浩(観世流)』
世阿弥、晩年の作品、小書「白頭」により衣装が変わり位も重くなるという。蝋燭の灯りが抜群に効いた演目、暗くて耳の感覚が増したためか今回は地謡の言葉もほとんど理解できました。前半、大法のため、旅僧を家には泊まれないから化け物が現れる御堂に泊まれという里人にちょっと悪意を感じます。うつほ舟に乗って怪しげな雰囲気を漂わせる舟人は、ちょっと必死な感じ、早い段階で自分は鵺の亡心と僧に告げる。自分が頼政に討たれた様子の語りは、動作付きでわかりやすい。退場の際に棹を落とすのは、恐ろしさより、棹があっても何処にも行けない強い悲しみを感じます。
中入りで里人が頼政に鵺が討たれる様子を再び語るのは必要ないようにも感じましたが、分りやすくするためには必要なのか。後半、僧の読誦に揚幕の中から答える鵺。蝋燭に照らされた鵺は凄い迫力。前シテと同一人物とは思えません。鵺がここまで執拗に討たれた時の様子や、褒美を受ける様子を語るのが不思議。君の天罰が当たりけると言っているから反省してんのかな。頭が猿、足手は虎、体は狸、尾は蛇、トラツグミに似た声で鳴く鵺という存在を作り出したのは人間、人間の情勢や疫病などの不安や恐怖の塊である鵺、それを退治したヒーロー源頼政をも鵺自身が演じてみせると能独特の演出には深い意味があると思われます。能舞台でも鵺の面や衣装は怖さもあるのですが、やはり悲しみの方が強いか。最後は爪先立ちで橋掛りへ、くるくる回り消えていきました。切ない。最後の詞章「冥きより 冥き道にぞ 入りにける 遥かに照らせ 山の端の月」は和泉式部が性空上人のもとに、詠みて遣はしける歌。晩年、死を短に感じている世阿弥の気持ちが重ねられているのかもしれません。前シテの面は「千種怪士(ちぐさあやかし)」、後シテの面は「大飛出(おおとびで)」でした。
今年最後の能楽鑑賞でしたが、蝋燭の灯りだけという厳かな雰囲気も素晴らしかった。来年も勉強させていただきます。
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