田崎隆三・甫 二人の会 能『姨捨』/狂言『樋の酒』/能『枕慈童』宝生能楽堂

田崎隆三・甫 二人の会 能『姨捨』/狂言『樋の酒』/能『枕慈童』宝生能楽堂
水道橋の宝生能楽堂で「田崎隆三・甫 二人の会」を拝見しました。初めての宝生能楽堂、広いホールは、人で溢れ会話しまくり、国立能楽堂と比べてもややカオス気味でしたが、素朴な松、飴色の能舞台がとても素敵。上演時間5時間に対し、休憩は一度で25分となかなか過酷です。

まずは能『姨捨(おばすて)』から、位の重い老女物のなかでも、『姨捨(伯母捨)』『檜垣』『関寺小町』の三曲は、最も重い秘曲とされているという。田崎隆三さんにしても古希にしてやっと披かれるそうですから、能という芸能の凄まじさを感じます。が、拝見して理由がわかりました。演目の季節と重なる中秋の名月の1日前というのも素敵。上演時間は2時間半という大曲です。

配役
前シテ里の女/後シテ老女の霊:田崎隆三
都の者:宝生欣哉
同行者:則久英志
同行者:御厨誠吾
更科の里の者:石田幸雄
小鼓:大倉源次郎
大鼓:國川純
笛:一噌幸弘
太鼓:小寺佐七

非常に長い一声が曲の重さを感じさせます。姨捨山のイメージは深沢七郎原作、木下恵介監督の映画『楢山節考』なのですが、能では山に捨てるのが実母ではなく育ててくれた伯母。シテはまず、揚幕の奥から声のみが聞こえる演出。前シテの面は「曲見」。老女が桂木に捨てられたのは月に生えているという伝説(中国では桂は木犀のこと)から。前半では捨てられた老女の執心をメインに。ちなみに今の地図で見ると更級と姨捨山(冠着山)はかなり遠い。おそらく死ぬ前に見た風景を思い起こして辺り見回す老女に視線に、その景色が思い浮かぶ。最後の地謡により「執心の闇を晴らさんと今宵あらはれ出でたり」と謡われます。

中入りの時、アイの狂言方により姨捨伝説が語られますが、最初は話すのを躊躇している様子。そして内容がかなりエグい。寝たきりになってしまった老女を、邪魔だから捨ててこいと男に言う妻、育ててくれた人だからと拒むが、結局は妻の剣幕に押されて捨てにいく。しかも捨て方は、霊験あらたかな阿弥陀があると老女を騙して姨捨山に連れていき、老女が拝んでいる間に逃げてきたという。その後、老女が泣き叫んで助けを求めたということまで淡々と語られます。なので「楢山節考」の老女のように死ぬ覚悟は全くできていない。ちなみにこの男は「都から人が訪ねて来たので、老女は嬉しくて夜遊をなぐさめたいと言ったのだろう」と想像します。

そして夜になり美しい月が出た後半、面は「老女」。杖をついての登場、橋掛りの中程で立ち止まり、恥ずかしくて躊躇するような、祈るような仕草を見せる。月は死、けがれなどの暗いイメージもありますが、この演目では浄化という言葉が合う。勢至菩薩は月天(がってん)の変化身、この部分は神懸っているとしか言いようがない。合引(椅子)に座った状態で右30度、正面、左30度に動くなど最低限の表現で仏を感じさせる。凄かったな。「昔恋しき夜遊の袖」から太鼓が入り「序之舞」へ。衣装も肩が張ったものの、肩部分を落として仕様変更されましたが、これも凄く効いていて、一気に人間に近づいた感じがする。面の表情も一変したように見えたのに驚きました。この舞は今まで見た中で最長、15分〜20分はあったか。この舞は都の者のためのものではなく、おそらく自分のためのもの、悲しみを浄化するためのもの、無心になるためのもの。月の精というよりは月と一体という感覚に近いか。そのうちに夜が明けると旅人たちには老女の姿が見えなくなり帰っていき、再び老女1人が残されます。膝をがくっと付く動作、再び杖を付き、ごくごくゆっくり、とぼとぼと去る。

おそらくこの老女は来年も中秋の名月の度に現れ、その日限りの心の浄化をするのでは、そしていつか完全に浄化される日が来るのか来ないのか。感想としては前半は老女の悲哀を感じたのですが、後半は全く別の感覚。田舎の老女がそこまで達観しているとは思えませんが、実子でもない子供を大切に育てたというのだから優しい人物だったのでしょう。そして心が穏やかになる中秋の夜が来た、喜び、そして心が永遠に浄化されるための祈りのような感覚に心を打たれました。仏の荘厳さまでも表現しなければいかない『姨捨』、激しい動きは全くないですが、相当の経験と技術、智力、精神力、胆力がないと演じることができないことは明白。2時間半も短く感じられた熱演、素晴らしかったです。見られてよかった!

仕舞『兼平:水上優』『:広島克栄』『熊坂:宝生和英』
厳かな『姨捨』に対し仕舞は勇壮な『兼平』、薙刀をぶんぶん振り回す『熊坂』も格好良い、『融』は月という共通点があり、こちらも賑やかな舞でした。

狂言は『樋の酒(ひのさけ)和泉流』、昨年11月にも拝見している演目でしたが、万作さん、萬斎さんの共演が素晴らしい。

配役
太郎冠者:野村万作
主:石田淡朗
次郎冠者:野村萬斎

親子ですので横に並ぶとお顔似てますね。米蔵の見張りを太郎冠者、酒蔵の見張りを次郎冠者に頼む主、案の定、酒を飲みだす次郎冠者。「はや飲むか!」の突っ込みが面白い。米蔵から出られない太郎冠者のために樋を使って飲ませてあげる優しい次郎冠者。酒の飲みっぷりも楽しい。結局は米蔵から移動し酒蔵へ行き2人で宴会モードに。万作さんの柔しく寛容な気迫に包まれ心地よい。主が帰ってきて怒られても、隙を見て酒の飲む太郎冠者に爆笑でした。誰が見ても笑える演目です。

最後はおめでたい能『枕慈童(まくらじどう)』、観世流では『菊慈童』とも。拝見するのは2度目です。

配役
シテ慈童:田崎甫
勅使:森常好
小鼓:田邊恭資
大鼓:柿原光博
笛:藤田貴寛
太鼓:小寺真佐人

作り物は舞台手前に本物の菊で飾られ、めでたい枕が置かれた台、奥に藁屋。妙文の書かれた枕と菊酒により、七百年行きている慈童、長生きするのも辛いですね。唐土にゆかりのある演目に登場する舞「楽(がく)」、手前に菊の台が置かれていることにより、シテ(衣装も菊柄)が菊畑の中で舞っているように見えて素敵。面も微笑んでいるように見えるし、足元が見えないのも浮遊感を感じて良いです。今宵は月と酒で決まりです。

とても残念だったのは上演中に携帯が4回も鳴ったこと。一度などは『姨捨』の時、大音量で。最悪。しかしながら、それにも惑わされない本当に素晴らしい『姨捨』でした。「わが心 なぐめかねつ さらしなや 姨捨山に 照る月を見て」、そして芭蕉の句「おもかげや 姨ひとりなく 月の友」、染み染みと感じ入ります。ありがとうございます。

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