いつも通り「泥人形」で休憩した後、国立能楽堂で『5月狂言企画公演 日本人と自然 草木成仏』を拝見しました。
配役
狂言『梟(ふくろう)善竹忠亮(大蔵流)』
とてもわかりやすく笑える演目、梟に取り憑かれた弟を祈祷してもらうため、知り合いの山伏に依頼するのだが。。。出から能がかった猛々しい台詞回しで登場する山伏を、どれくらい威厳を持って演じられるかがポイントでしょうか。兄が山伏への案内を、揚幕に向かって乞うのも良い演出。偉そうに頭の脈を取った後、山伏が祈祷し始めると弟が震え始めるのですが、善竹大二郎さんのほっぺのプルプルが可愛い!祈祷の仕方も「ぼろんぼろん(有難い梵字)」とか「烏の印」とか「いろはの文」とか、ちょっと抜けています。祈祷を続けると何故か梟が兄にも取り憑いてしまうのですが、弟から兄へ移動するのでなく、増えていくのが怖い。兄弟が梟に変異し仲良く飛び去った後、案の定山伏も。梟の感染力の強さ、今の時代、コロナウイルス蔓延も彷彿とさせる皮肉の効いた演目でした。皆で「ホッホッー!」するのも楽しいかも。
狂言『蝉(せみ)野村又三郎(和泉流)』
源氏物語の空蝉のパロディで、ちょっとだけ能の『松風』のパロディでもあるのか。中央に松の作り物、善光寺参りの僧が上松の里に辿り着き、松に掛けられた短冊の「空蝉の 羽に置く露の 木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かな」の句を発見。里人に理由を聞くと烏に食べられた蝉を供養するためのものだとか。僧が祈祷すると蝉の亡霊が登場、何故か杖を付いている、面は「嘯(うそふき)」か。蝉の口吻を模した口の出っ張りが半端ないですが。。。仕舞っておくのが大変そう、もしや口は取り外し可能なのかも。蝉の亡霊は烏に食べられた時の様子(羽を毟られたりけっこうリアルで痛い!)、その後の地獄に苦しみを語るのですが、蝉も地獄に落ちるのか。生きてる時に何したんでしょう。飛んだら鉄(くろがね)の山に阻まれたり、蜘蛛に捕まって体液を吸われたり蝉も大変だ。最後は僧の供養により見事「法師」になりましたとさ。素晴らしい地口落ちでした。
新作狂言『鮎(あゆ)野村萬斎』
2017年12月の初演を拝見しているので2度目、鮎なので夏の方が雰囲気が出て良いです。石川県手取川の側に住む才助、釣りに行くと鮎が沢山釣れますが、やはり大鮎1尾、小鮎5尾が可愛過ぎ(衣装は青海波模様)。わざと釣られに行ってるとしか思えません。古事記に、すべての魚が神に奉る食物としてお仕えすると約束した話があるといい、魚は人に食べられるのを喜ぶ思想があるとか。釣られ、串を刺され、体に沁みる塩を掛けられ、焼かれ、食べられ、また鮎に生まれ変わりたいと楽しげに語り、「あちあちあちち」と歌いながら火に炙られるのドMな鮎たちは、人間本位にも感じますが、そういった考え方によるものか。自分が鮎だったら人間に食われるのはやっぱり嫌だな。食べられた後、大鮎が狂言回しの役割も担っていたり、小鮎が人間の代役をしているのが可笑しい。
そこへ正義感のためか、村長の息子といざこざを起こし逃げ込んでくる小吉。才助はこいつは都会へ出るべきでないと直感しますが、才助が止めるのを聞かず、小吉に金沢の宿屋を紹介してもらう。風呂焚き→下足番→番頭→婿入→大名に取り入ると順調に出世しますが、性格はひん曲がってしまいます。半畳台を釣り場、囲炉裏、風呂など色々なものに見たてるのは本当最近のコントのよう。出世の例えでジャコ→ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリが出されるのですが、萬斎さんの「ブリッ!」の自信満々な言い方と仕草は爆笑。狂言師というよりコメディアンっぽいな。色々あって再び舞台は才助の家へ。先ほどまでの出来事は夢か現かは述べられませんが、夢だったのではと思いたい。普通なら、ここで改心しそうなものですが、思い返せば出世した小吉は性格が超絶悪くなっただけで、失敗はしていない。最後は小吉一人が残され「それでもやっぱり都へ行きたい」「銭が欲しい、夢が見たい」と喚きながら退場。
新作狂言だけあり、現代的な演出ですが、人間の業の深さや自然愛とテーマは不変。狂言らしく単純なハッピーエンドでは終わらない所が良い。鮎が食べたくなりましたが、今は稚鮎の季節、来月は鮎のシーズンなのが嬉しいです。久々の狂言の会でしたが、能ほど頭を使うこともなく、ゆっくりすっきり楽しめました。
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