『朱子学と陽明学』小島毅著 ちくま学芸文庫

『朱子学と陽明学』小島毅著 ちくま学芸文庫
『物語 中国の歴史 文明史的序説』 (寺田隆信著 中公新書)からの流れで拝読。『朱子学と陽明学』、どちらも名前ぐらいは知っていますが、その内容は未知の世界。『論語』や『老子』はずいぶん前に読んでいますが、基本的に下地がないため難解な本でした。まず中国人の名前が全然覚えられない、漢字で書いてあっても読めないし(フリガナは最初しか付いていないので忘れる)、皆様名前が2つ以上あってややこしい!

最もわかりやすい違いは、一般的には朱子学の「性即理」、陽明学の「心即理」だそうだが、著者曰くこの根本は同じで明確な違いにはならない。それよりも『大学』の一説「格物致知」の理解の違いが大きいという。

朱子学(朱熹)の場合は「格物→物に至って」と解釈する。読書、訓詁(部分的な文字や語句の解釈)などにより理を窮める(窮理)ことが必要。それは聖人に至るための方法でもある。

陽明学(王守仁=王陽明、ややこし!)の場合は「格物→物を正す」と解釈する。それを理解するための説明が長い!まず「四句教」というもの。

無善無悪は心の体
有善有悪は意の動
知善知悪はこれ良知
為善去悪はこれ格物

この句を見ると「格物」よりも「心の体」が根本概念であり、心が無ければ格物も無い。心は善悪すら超越するもので、性善説vs性悪説という二元論をも超越する画期的思考方法!

さらに『大学』の一説「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」の解釈。重要なのは3句目で朱子学では「親」の字は間違いで、実は「新」だと考えたのに対し、陽明学ではそのまま「親」と捉える。「新民」と「親民」、何となくではありますが、考え方の違いが良くわかる二字。

という訳で陽明学の「格物→物を正す」は各々の心を正しくすれば、世界は平和になりますよ〜ということでしょうか。誰でも聖人になれる可能性があると説く陽明学の方が庶民に受け入れやすく、実際広がったのも納得。日本にも大きな影響を与えましたが、色々間違って(短絡的に)伝わったり、意図的に変格されたりもしたようですね。

浄土真宗の法然から親鸞への流れに近い感覚を覚えましたが、内実は別物(儒教を宗教とするかも微妙な問題だし)。朱熹は1130年、王守仁は1472年の生まれで300年以上の差があります。現代の世で2人が学校教師なら絶対に王先生の方が人気。厳しい朱先生なんて厳しすぎて陰口言われ放題かも。実は優しいんですけどね。陽明学の方が現代人の考え方にあっている気がしますが、だからこそ朱熹の偉大さも伝わってきました。また荻生徂徠、中江藤樹、伊藤仁斎など日本の儒学者の本も読んでみたくなりました。

読み終わった後に知ったのですが、帯が炎上した本だったのですね。キンドルなので帯とは無縁。帯のキャッチは「なぜ中国・韓国はああなのか?東アジアの思想を一望 極めつきの入門書!」というもの。著者の意図とは真逆のような気がいたしましたが。。。兎に角あまり気持ちの良い文面ではありませんね。

「先憂後楽」「修己治人」「事情磨練」「満街聖人」「知行合一」など素晴らしい言葉が色々ありますが、「天理」「理」「気」など日本語として知っている言葉だらけなだけに、理解を妨げる。中国の歴史がそう簡単に理解できるはずもなく、私には大変難解な本でございました。ある程度時間がたったらもう一度読み返したいと思います。

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