『人外(にんがい)』松浦寿輝著 講談社

『人外』松浦寿輝著 講談社
第72回野間文芸賞受賞作。小説説明の「神か、けだものか。」という一文とタイトルに惹かれて購入。

アラカシの巨木の大枝が幹と分かれる枝のあたりで生まれたわたしたち。第1章の「発端」がとても良い。言葉の発生、わたしたちのなかにいる沢山のわたしたちが徐々に形となっていく過程、生命の誕生を屈折させて超早回しにしたような表現が面白い。セカイという謎の発音が世界になる、わたしたちは世界の一部で、世界が夜のなかにすべりこむなど、この諸説全編に見られる矛盾をはらむ表現が素敵。教えてもらっていないのに何故かすべてをすでに知っているというのはソクラテスの「魂の不死について」を連想させます。

その何かが前足のような突起を使い前に進んだり川に流されたり、眠ったり。何かわ変わらないものの冒険譚が楽しい。途中で人間の少女や女性の生活の記憶のようなものも描写され、とりあえず何かはわからない「かれ」に再開するのが目的のようなことが理解されますが、これが後ほどの展開に明確には関連しないのは肩透かし。初めて野ねずみを捕まえた時の血の味、食べることの法悦には人間らしさを感じますが、わたしたちは、ひとでなしの「人外(にんがい)」であると規定することで、ひとまずアイデンティティを得たということでしょうか。

2章は「橋のたもと」、人外はひたすらさびしい、純粋状態のさびしさ。さびしさの表現は「世界のうちにとどまりながらもたえずそのそとになかばはみ出して生きていかざるをえないものに固有のよるべなさであるようにおもわれた。」は少し言葉を考えれば自分にも共通する感覚、全ての人間がひとでありひとでなしの人外と言えます。橋の上から何かの病気で血膿が吹き出る子供の屍体が落とされます。その屍体ではなく「ちょこなんとちぢこまった、皮かむりのちんぽこ」に憐れみを感じる人外。「飢えというそれはそれでほんのり快くなくもない感覚」は生きていることの証、生きていることの快さ。空想、妄想により「じぶんが生きのびる可能性はよりたかまるにちがいないとおもわれた。」のも同様、屍体と接することでより生きるということの意味が理解されたように思います。最後は自分の体と比べれば大きい子供の屍体を頑張って川に流してやる優しさも見せます。

第3章は「見張り小屋」、アナグマのようなイタチのような灰褐色の毛並み、短い前脚に、ふとい胴、指の間に水かき、碧いろの目、顔はネコと人外の外見が人間の子供の目から初めて描写されます。続く瀕死の老人、眼帯をした女性タクシー運転手、偽哲学者との交流はおどろおどろしさがあり、どんな人外の大冒険が続くのかとワクワクさせましたが、その後描かれる、クルピエ(ルーレットの胴元)、チンパンジー、図書館を奪われた司書、踊る元病院長、ゴンドラ漕ぎのロボット、女の子との交流は、前半部分と違い行動より言葉の表現が増しやや冗長。伏線回収的なこともあまり無く、病気など殺伐としたムードは、世界がかなり荒廃(人間らしい精神も)していることを示すためか。人外の元病院町に対する質問「ニンゲンはなにをやってきたの?」の答え「……やらずぶったくり、だろうなあ、ひとことで言えば。」というのも凄い。

終盤のもう1つの人外との出会いもそれほど盛り上がらなかったが、「意識の本質は自意識だろう。自意識の出現、それは奇蹟であり、またとうほうもない謎である」という一行は素敵です。そして最終章の「終末」、探し求めていた「かれ」というのは「神のようなものか」と思って読んでいたのですが、その変ははっきりせず。とりあえず彼とは一緒になれたよう。最後の「宇宙のダンス」「ダンスする宇宙」という表現はとてもよかった。カオスな終わり方。

初めて知った著者の松浦寿輝(まつうらひさき)氏は若い方かと思いきやベテラン、芥川賞、谷崎潤一郎賞、紫綬褒章などなど色々受賞されている方でした。ウィキペディアによると詩人としてデビューされ、短編小説の方が愛着があると記載があるので、今回の小説の完成度も納得。今度は芥川賞受賞の「花腐し」が掲載されている短編集を読んでみたくなりました!

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