先月に引き続き月間特集「日本人と自然 花鳥風月」を拝見しに国立能楽堂にお伺いしました。季節は夏ですが、今日のテーマは「秋の月」です。
配役
狂言『箕被(みかずき)大藏彌右衛門(大蔵流)』
連歌にはまり過ぎて家にも帰って来ず、妻に離縁を言い渡される男の話。趣味に溺れるというのは現代にも通用するエピソードです。暇の印の「箕(農具、片口ざる)」を頭に乗せて家を出た妻の後ろ姿を見て発句「いまだ見ぬ 二十日のよいの 三日月は」、こんな時まで!と思いますが、それを聞いた妻が家に帰って来て脇句「こよいぞ出づる 身こそ辛けれ」。おーっ、うまいっ!こんなに妻が連歌がうまいならずっと家にいるよ。となりめでたしめでたし。最後は夫婦の再会のを描く能『芦刈』の詞章「浜の真砂はよみ尽し尽くすとも 此の道は尽きせめや 唯弄べ名にしおふ 難波の恨みうち忘れて ありし契りに帰りあふ 縁こそ嬉しかりけれ」に合わせて舞納めます。
能『松風(まつかぜ)狩野了一(喜多流)』
「熊野松風は米の飯」、先月『熊野』を拝見し、今月は『松風』、上演時間1時間50分とかなり長め。昼の歌舞伎座第二部の時点で非常に眠かったので心配でしたが、眠ることなく楽しめました。在原行平が須磨に蟄居した際に愛を交わした海人姉妹の物語。中央に松の作り物、途中で汐汲車、思ったより小さいですが、本物はどれくらいのサイズなのでしょう。最初色々あって「真の一声」で松風、村雨登場、神をシテとする脇能以外で、これが使われるのは『松風』のみという。村雨は揚幕の前で、松風は橋掛りの七三の当たりに立ち、向かい合って謡う登場シーンがめっちゃ格好良い!『祇王』などもそうでしたが、似た面を付けた同列の女性2人が出る演目はそれだけで幻想的。須磨の侘びた情景、そして陸奥の千賀の塩釜、阿漕ヶ浦、二見ヶ浦、鳴海潟と移りゆく情景描写は、正にに機械を使わないVR。桶に映る月を見て喜ぶ2人、月に行平を思うか。
後半は、旅僧が一夜の宿を求める場面。僧の「わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ」、行平の話に松風村雨のスイッチオン。とくに松風、めっちゃ泣く、何度も泣く、のには驚きました。泣く動作は村雨が長く1回なのに対し、松風は短く2回、号泣ってことか?とにかく松風の方が感情的なのは間違いない。行平の形見の立烏帽子と狩衣を手にしてからはさらに激情、その際に下を向く所があるのですが、面に強い悲しみの表情が現れます。こんな激しい囃子も珍しい。これは寝てなどいられないぞ。その後が難しかった。それを掛けて寝るというのは理解できるが、「着る」というのはどういった心理か。考えるとかなり混乱した。松風が行平で、行平が松風?シンプルに体の交わりと考えるか。「磯馴松」で松風が松に覆いかぶさりますが、この行平に見えている松は姉妹の墓標ではないのか。そして松に近づこうとする松風を素早い動きで止めようとする村雨に、自分より行平に愛されていたであろう多分姉の松風への嫉妬が、気が狂うほど愛せることのできる松風への尊敬の念が見えるよう。おそらく行平も2人の性格も考えて命名したのだと想像、村雨の方がさばけている感じがいたしますね。しかし行平の「立ち別れ 因幡の山の 峰に生ふる 松とし聞かば いま帰り来ん」の歌は無責任!と思えなくもないが、当時の考え方ではそんなもんなのでしょう。最後、腕を高く上げ、揚幕に消えていく松風が素敵、本当に風を感じたのは気のせいではないでしょう(エアコン?)。旅僧もそれに答えるように一度だけ足を踏み鳴らします。
先月拝見した『熊野』の方が刺さったのだけれど、『松風』も面白かった。演者、もしかすると流派によっても表現がかなり異なりそうなので、また拝見してみたいですね。
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