4月定例公演 狂言『土筆』能『熊野 村雨留』国立能楽堂


国立能楽堂にお能を拝見しにお伺いしました。今月のテーマは「日本人と自然 春夏秋冬」ということで四季を象徴する演目が取り上げられています。今日は演目は「春」です。

配役

狂言『土筆 (つくづくし)善竹彌五郎(大蔵流)』
大蔵流は久しぶりに拝見しましたが、演者にもよるのでしょうが和泉流よりも軽妙な印象。時間も短いですし、とても解りやすく面白い内容。友人を誘い野辺の遊びに出、土筆を積むまでの2人の交流は何とも言えず穏やかで癒される。シテが歌を読みだしてからは雲行きがだんだん怪しくなります。首が曲がった土筆を見つけて読んだ歌「土筆の首 しおれてぐんなり」、元歌は「わが恋は 松を時雨の 染めかねて 真葛が原に 風さわぐなり」、そこをそう間違えるか!爆笑!続いて赤い芍薬の花を見つけて一句「難波津に 芍薬の花 冬ごもり 今は春べと 芍薬の花」、この間違いはわからなくもないが、二回続けて馬鹿にされたシテはブチ切れ、相撲を挑むが、やっぱり負けちゃう。ご高齢のお2人が相撲を取るのも、危うさはなく、子供が戯れているような微笑ましさまで感じてしまいます。存分に癒された!

能『熊野(ゆや)村雨留(むらさめどめ)観世銕之丞(観世流)』
昔から「熊野松風に米の飯」と言われているくらい飽きない演目だそうですが如何に。『平家物語』の巻十「海道下」からの着想だそうですが、訳本でも数行の場面、作者不明(一説には金春禅竹とも)とのことですが、素晴らしい創造力。小書「村雨留」がつくと、舞の終わり方が変わり、舞は通常よりも短く、村雨が降ってきて桜の花を散らすのに気づいて、舞を途中で止めてセリフを言う型になるという。ずっと見てみたかった演目で楽しみでしたが、めっちゃ眠くてやばかった。熊野が登場してから眠気が冷めるも再び睡魔に襲われます。そして熊野が花見車に乗ってからも睡魔と闘っていたのですが、思い切って字幕を消したら睡魔は去った。近い字幕から遠い舞台へのピント調節が眠気の原因だったかも。そっからはのめり込み。舞台下手に設置された花見車に乗る熊野、情景説明と共に視線が緩やかに動くのですが、熊野の目を通して東山、花見をする京の人々、満開の桜、六波羅の地蔵堂、子安の塔、見たことはないけれど情景が見えるよう。清水寺に到着し、平家物語の名文と仏教感を組み合わせた美しい詞章が続きます。当時の人は桜が咲いていない時期にこの演目や西行桜を見て、桜を愛でていたのかもしれませんね。

桜の花が見えるような美しい舞、村雨に気付いて舞い止め、筆に見立てた扇で短冊に「いかにせん 都の春も 惜しけれど 馴れし東の 花や散るらん」という和歌をしたため、宗盛に渡しに行く場面が眼目。宗盛に対する反抗などなく、ただただ病気の母に一目会いたいいう思いが伝わり、泣ける。宗盛は、平清盛の三男で、有能な兄重盛に対し、愚鈍で傲慢、あまり良い人物とは描かれていない。あのような和歌を持っていけば殺される恐怖もあったでしょうが、激しい囃子は、それでも母に会いたい熊野の気持ちを表現しているように思いました。当時『伽羅先代萩』を見た後、歌舞伎座の電話ボックスには息子に電話をかけずにはいられない母親の行列ができるという話を聞いたことがありますが、その逆か。子供がいない人はいますが、母親がいない人はいないという明らかな事実。人気があるのも頷けます。

ツレの朝顔は観世銕之丞の息子の観世淳夫さん、出の時は動きがお婆ちゃんっぽく見えたのですが、宗盛に帰郷を許されてからは、表情も笑っているように見え、最後の熊野にぴったり付いての退場も良かったな。シテの面は「孫一」、ツレの面は「小面」。孫一は孫次郎?室町末期に活躍したとされる太夫・金剛右京久次によるものか。詳細は不明。高峰秀子さんがエッセイで、小津安二郎の映画と能楽は似ていると仰っていましたが正しく!ポイントは余白かな。熊野が今後とも永遠に人の心に訴える演目であり続けることを心より願います。コンピュータなどは使わずとも情景に加え、感情までも見える能楽って、本当に良いですね。

コメント

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